人生の最期に寄り添う医療・ケアをターミナルケアといい、この世からの旅立ちを見守ることを看取りといいます。看取りのためにはご本人だけでなくご家族にも「死の受け入れの理解」が必要です。

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人生の最期のケアを行い、この世から旅立つ方を見送ることを看取りと言います。病気を治すことが困難な場合に、見守り、痛みなど苦しい症状を取り除き(緩和治療)、最期の時間を大切に過ごしていただきます。こういった時間に医療者・介護者が行うケアをターミナルケアと呼びます。

在宅医は患者さんが亡くなった時には死亡診断を行い死亡診断書を発行します。

ターミナルケアの時間は亡くなるご本人が過ごしてきた人生の最期の時間です。

この時間をご本人が過ごしたいようになるべく過ごすことができるように援助したいと多くの医療者が考えています。

そのために在宅医療では、自宅などで緩和治療などを提供して自宅で過ごせるように色々と工夫しています。くわしくは在宅医療でできることをご覧ください。

どこで看取るか

人生の最期を迎える場所は実はどこでもよいのです。1980年~2020年頃の日本では多くの方が病院で亡くなる時代でした。病院は病気の検査・治療のために必要な機材がそろっています。治療の延長として病院で看取っていたのです。

看取りの場所としてどこが最も良いかというのは、ご本人、ご家族の価値観によります。

「助からないかもしれないと考えられても、最後の瞬間まで可能な治療を続けたい」という方には入院での治療を受け続けてその最後に病院で亡くなるというのはその価値観に沿った選択だと思います。

「助からないとおおよそわかったら治療は中止して自宅に帰って家族と一緒に過ごしたい」という方には退院して在宅での看取りを行うというのはその価値観に沿った選択だと思います。

どこで看取るかを決めるためには、ご本人、ご家族が何を大切に考えているかという価値観をまず考えないといけません。

病院では新型コロナウイルス感染症の影響もあり、面会がかなり制限されるなど、看取りの場面には不利な要素がいくつかあります。逆に在宅では医療者の不在など、ご本人、ご家族が不安になりやすいなど看取りの場面には不利な要素がいくつかあります。どちらも一長一短ですので、正解はなく、「どちらを選ぶか」なのです。

看取りのために必要な医療的手順

看取りのためには「助からない病態であることの正しい診断」と「告知」と「受け入れ」が必要です。

医療に最も期待されることは健康の回復だと思います。しかし、現在の医学では太刀打ちできない病気・病態というのは残念ながらたくさんあります。医療者は、病気が回復可能な状態かそうでないかを正確に見極めるために診察や様々な検査を用いています。回復が可能な病態なのにいい加減な診察や検査で回復できないと決めつけるようなことはあってはいけません。ただし病気が進んでいると検査そのものが体に害を及ぼす場合もあり、検査を行うかどうかについても慎重に検討する必要があります。このように慎重に判断を進めていく中で、病気が進行しており助けることは難しいという場合には看取りに向けた方針を提案しなければいけません。看取りを提案する前提として、「助からない病態であることの正しい診断」が必要なのです。

それをご本人、ご家族に伝えるのも医療者の役割です。余命が限られるなどと分かった時にご本人・ご家族に伝えることを「告知」と言います。これはご本人にとっては死刑宣告のようなつらい話です。ご家族にとっても簡単に受け入れられる話ではありません。しかし、医療者が告知から逃げてしまうと、ただでさえ短い余命が、ご本人・ご家族の知らぬ間にもっと短くなってしまいます。告知の在り方もご本人・ご家族の精神的なショックがなるべく過大にならないような配慮は必要ですが、どこかで向き合っていただかないといけない話で、逃げることはできません。ターミナルケアに携わる医療者はこういった告知についてどのように進めたらよいのかを学ぶ必要があります。

告知のあと、ご本人、ご家族がそのつらい現実について「受け入れ」の時間が必要です。自分の余命が限られていること、大事な家族が近い将来この世を去ることを簡単に受け入れられる人はそんなに多くないでしょう。人はいつか死ぬということは理屈ではわかっていても普段はそんなことには触れたくないものです。ましてや残された時間が短いなどと、想像もしたくないものです。ところが、病気のために余命が短いとわかったらそれに向き合っていただく時間が始まります。決して楽しいことではありません。楽なことでもありません。しかし、限られた余命を知らずに無為に過ごすよりも、限られた余命であることを知って過ごしていただくほうが、やりたいことを最大限行い、その時間を有意義に過ごすことができるようになると思います。理屈ではこのように考えられるのですが、受け入れは簡単なことではありません。「どうして私が」「どうして私の大事な家族が」「なぜ」という葛藤、疑問、否定など様々なつらい感情にご本人、ご家族は襲われます。その気持ちに寄り添い、話を聞き、肉体的な症状だけでなく、精神的なつらさも緩和できるようにしたいと考えています。これは簡単なことではありません。様々な学びを重ねてゆかねばなりません。エンド・オブ・ライフケア協会の活動などには、こういった人のつらい状況に寄り添うことを志す方(これは医療者に限りません)の学ぶ場があります。

「正確な診断」「告知」「受け入れ」ができると、ご本人・ご家族が最期の時間を有意義に過ごすことができるようになると感じています。例えば子供や孫と一緒に時間を過ごしたり、例えば思い出の地を旅したり、例えば会社の清算をしたり、その方が過ごしてきた人生の最期を、思い思いの時間で過ごしていただけます。

ターミナル期の支援

ターミナル期はご本人の身体状況はだんだんと悪くなる方が増えてきます。食事が摂れなくなったり、移動が難しくなったり、意識状態が変化したりと様々な変化がおこります。症状の変化は個人差が大きく、亡くなるその日まで普通に暮らせる方もいらっしゃいます。様々な身体状況の方がいらっしゃってもご自宅や介護施設でサポートできるように、訪問看護・訪問リハビリテーション・ヘルパー・福祉用具専門相談員・訪問入浴などの多職種が生活支援を行います。

病気で弱っていくときにはご本人、ご家族は精神的にもつらい時期です。そういった時にも多職種のメンバーで寄り添い、よりよい日々の過ごし方を提案することで少しでもそのつらさを軽減できたらと考えて支援します。

レスパイト入院

自宅で療養生活を送っているとご家族には介護負担がでてきます。病気の状態によって負担の重さも変わってきます。負担が重くなってくるとご家族が疲弊してしまう場合もあります。在宅医療ではご本人だけでなくご家族もケアの対象と考えて観察する必要があります。ご家族が疲弊してしまって倒れるようなら本末転倒です。レスパイト入院という制度があり、ご本人の治療よりもご家族の休憩を主眼に置いて一時的に入院していただくことがあります。在宅医療をすると決めても、入院できないわけではないのです。

救急車を呼ばない

看取りの方針の場合、最後は心臓や呼吸が止まることになりますが、こういったことはわかっていても普段接する機会がない方は慌ててしまいます。慌ててしまうとご家族や施設職員が救急車を要請してしまうことがあります。看取りのときには救急車を呼ぶというのは方針にそぐわないことです。看取りの方針を止めて救命の方針に切り替えるということがあれば救急車を要請することはあるかもしれませんが、救急車を要請するということは「胸骨圧迫(いわゆる心臓マッサージ)や人工呼吸器管理などあらゆる手立てを使ってでも延命を試みたい」という意思表示になります。それまでの看取りの方針を納得されているのであれば、救急車は必要ありません。

看取りの方針となった場合には、ご家族、施設職員に「意識や呼吸がおかしくなったり、心臓や呼吸が止まった時には救急車を呼ばなくてよい」ということもきちんと説明しておきます。

がんのターミナル期の方は亡くなる数日前や当日まで普通にお元気に見えて、ご飯も食べて、歩いて過ごしていることもあります。こういった経過をたどる方の場合、突然意識を失ったとか、寝ていると思ったら息が止まっていたなど、ご家族から見ると突然亡くなったように見えてしまいます。そうすると心の準備ができていないので慌てて救急車を呼ばれることがあります。救命のための蘇生行為は胸骨圧迫や気管内挿管など、体に負担を与える作業も少なくないため、がんのターミナル期と診断されている方にはそういった救命措置はそぐわないものと考えています。

病気の状態と今後の方針をきちんと確認しておくことが必要なことです。亡くなる可能性やそういった状況のときの行動についてもきちんと説明しておかなければなりません。「亡くなるとき、どうしますか?」という質問は、ご本人やご家族にはつらい決断を強いる可能性のある質問なので、突然切りだすような質問ではなく、こういった話をする必要性についてもきちんと説明しておかねばなりません。ここに記載しているような、変化が突然起こる可能性についても説明が必要なのです。

特に施設入居中の方の場合には、施設職員と方針を共有するために方針を文書化して、意識や呼吸や心拍が悪化や停止しても救急車を呼ばない、困ったら訪問看護師や在宅医に連絡を取れることを明記してご本人のそばにその文書をいつでも見れるようにしておきます。

自宅での死去

自宅で亡くなったら検死になって警察の介入があるのではないかと心配される方もいらっしゃいますが、在宅医療でケアをしている方がご自宅で亡くなった場合には警察が介入する必要はありません。在宅医が病因を把握しておれば死亡診断して死亡診断書を発行できます。警察が介入するのは異状死と呼ばれる外因死(事故・他殺・自殺など)や病死であっても病因が不明な場合です。医師が病因を把握していて事故、他殺、自殺ではないと担保できれば大丈夫です。医師が生前の状態と連続性がある死と判断できる場合には異状死にはなりません。

まれに、老衰や認知症などでセルフケアが困難な独居の方の場合にご家族と介護者・医療者が綿密に連携してご自宅で看取ることもありますが、そのような場合にはご自宅でおひとりで亡くなっていることを発見することになる場合もあります。おひとりでご自宅で亡くなっている場合でも、生前に診察している医師が死後診察を行い、生前の状態から一連の病気や状態で亡くなったと判断できる場合には検死とせずに死亡診断できます。

命のバトンタッチ

特に子供や孫と最期の時間を過ごすのは大きな価値があると感じます。人はいつか死ぬと理屈ではわかっていますが、特に子供には人の死を実感して感じる機会はあまりありません。祖父母や父母と最期の時間を子供が一緒に過ごすことで、人がこの世を去るということを実感します。この世に生まれ落ちた人がこの世を去ってゆくことを体験するのです。「諸行無常」ともいわれますが、人の人生の有限さ、自然の厳しさを学ぶのです。

私はこれを「命のバトンタッチ」と呼んでいます。祖父母や父母が子供に自分の身をもってこの難しい、人生最大の学びを贈り、子供にとって自分が何者なのか、どこに向かって生きていきたいのかという哲学的な思考のおおもとになってゆくのではないかと思います。子供が祖父母や父母の最期の時間を共有することは、このような意味があることだと考えています。

診断がきちんとついていれば最期の瞬間に医療者は必要ない

人がこの世を去るということは自然の営みの一つです。病気についてきちんと診断がなされていて亡くなることが予想されている場合には、その方が亡くなる瞬間に医師、看護師がそばにいる必要はありません。ご家族だけで水入らずの時間を過ごしていただき、息をひきとったと感じたら、ゆっくりお別れをして、そのあとで訪問看護師や在宅医にご連絡いただきます。在宅医が亡くなった後に診察して(死後診察と呼んでいます。)、生前の病気と矛盾ないことを確認して死亡診断を行います。

念のために述べておきますが、亡くなった後に初めて訪問診療を依頼された場合には、生前に診察をしていない方については亡くなりうる病気かどうかの診断ができないため、訪問診療をお引き受けすることはできません。異状死として警察に届け出ることになります。

看取りの文化

人はいつかこの世を去る存在です。その最期をどこで迎えるかというのは、文化だと思います。昔は自宅で8割の方が死去していたのが、8割近くの方が病院で最期を迎える時代に変わりました。そしてまた今、看取りを自宅に戻そうという文化が広がってきています。

入院中には、どうしても家族と一緒に過ごす時間は短くなってしまいます。

入院には入院のメリットがありますが、最期を一緒に過ごすという価値は入院のメリットとはまた違った側面で大きな価値のあることです。

自宅での看取りのため、在宅医療はもっともっと進化してゆく必要があると感じています。

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